1801年8月12日、バーミンガムに生まれたジョン・キャドバリーは、裕福なクエーカー教徒の家庭で育ちました。
当時、クエーカー教徒は宗教的な理由から、大学教育や専門職に就くことが制限されていました。このため、ジョンは商業の道を選び、1818年にはリーズの紅茶商で徒弟修行を開始しました。彼の父、リチャード・タッパー・キャドバリーも成功した商人であり、ジョンのビジネスの基盤を築くうえで大きな影響を与えました。
クエーカー教徒は、平和主義と質素な生活を尊び、社会正義に積極的に取り組んでいました。奴隷制度の廃止や監獄改革に尽力したのも、こうした信仰によるものです。ジョン・キャドバリーもまた、この倫理観をビジネスに反映させる形で、後にキャドバリー社を成長させていきます。
19世紀の産業革命は、イギリスの経済と社会に大きな変化をもたらしました。農業中心の社会から工業中心の社会へと移行し、
都市への人口集中が進みました。労働者の労働環境は劣悪であり、長時間労働が当たり前となっていました。この中で、キャドバリーは紅茶とコーヒーを中心にビジネスを始め、1824年にバーミンガムで食料品店を開業しました。
当初、ジョンは紅茶とコーヒーの販売を主力としていましたが、次第にココアとチョコレートの製造にも手を広げていきました。
1831年、彼はバーミンガムに小さな工場を開設し、ココアドリンクの製造を本格的に始めます。当時のチョコレートは、固形ではなく飲み物として消費されるのが一般的で、キャドバリーもこの市場での成長を目指しました。
1866年、ジョンの息子たちはオランダの技術を導入し、ココアバターを除去した「ココアエッセンス」を開発しました。
この製品は、従来のココア製品に含まれていた不純物を排除した純粋な製品であり、消費者に好意的に受け入れられました。この「純粋さ」を強調した広告戦略により、キャドバリーは一躍イギリス国内でのシェアを拡大します。
さらに1905年、キャドバリーは「デイリーミルク」という製品を発売し、これが大ヒット商品となりました。
従来のチョコレートよりも多くのミルクを使用し、濃厚でまろやかな味わいが特徴です。スイスのチョコレートと競争しながらも、イギリス市場でのシェアを急速に拡大させました。
キャドバリーは、単なる製品の宣伝にとどまらず、品質と純度を訴求する広告キャンペーンを展開しました。
「絶対純粋、それゆえに最高」というスローガンを掲げ、製品の安心感を消費者にアピールしたのです。特に「ココアエッセンス」の純粋さを強調した広告は、消費者の健康意識を刺激し、キャドバリーの市場拡大に貢献しました
1879年、ジョンの息子ジョージ・キャドバリーは、バーミンガム郊外に労働者向けの「ボーンビル村」を設立しました。
ここでは、労働者とその家族が健康的な環境で生活できるように、広い住宅や公園が整備され、スポーツ施設なども提供されました。この取り組みは、単なる企業の社会貢献活動にとどまらず、労働環境の改善と生産性向上に繋がる革新的な施策でした。
20世紀初頭、キャドバリーはサントメ・プリンシペ諸島からカカオを輸入していましたが、この地域では奴隷労働が行われているという報告がありました。
1905年にジャーナリストがこの問題を暴露すると、キャドバリーは調査を行い、1909年にこの地域からのカカオの購入を停止しました。
この奴隷労働問題に対するキャドバリーの対応は、企業の社会的責任に対する意識を示すものでした。
しかし、問題に対応するまでに8年という長い時間がかかり、現代の基準から見ると、その遅さは批判の対象ともなっています。しかし、キャドバリーが段階的にでも問題解決に向けて行動を起こしたことは評価されるべき点です。
キャドバリーの歴史は、産業革命期の社会背景を映し出し、企業がどのように革新と社会的責任を両立させてきたかを示すものです。
ジョン・キャドバリーが掲げた倫理観と、その息子たちが引き継いだ革新の精神は、今日の企業にも大きな示唆を与えています。チョコレートの甘さの裏に隠された企業の挑戦と努力、その歴史を知ることは、私たちが現代の消費社会を考える上で重要な視点を提供してくれるでしょう。