17世紀のイギリスは、激動の時代を迎えていた。1603年、エリザベス1世の死後、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位。ここにスチュアート朝が始まる。しかし、王権神授説を主張する王室と、議会との対立は深まっていった。
この対立は、チャールズ1世の時代にさらに激化。1642年には内戦が勃発し、1649年、チャールズ1世は処刑される。その後、オリバー・クロムウェルによる共和制を経て、1660年、亡命先のフランスからチャールズ2世が招かれ、王政が復古することとなった。
チャールズ2世が直面した課題は複雑だった。まず、深刻な財政難があった。長年の内戦と政変で国庫は逼迫し、さらに1665年のペスト、1666年のロンドン大火という災害が追い打ちをかけた。
一方で、当時のイギリス上流階級の間では、フランス文化が大きな影響力を持っていた。チャールズ2世自身、9年間のフランス亡命生活でルイ14世の華やかな宮廷文化に触れていた。しかし、フランスからの文化的独立を示す必要もあった。
このような状況下で、チャールズ2世は衣服改革を実行する。「余は新しい衣服を採用することにした。以後、これを変えることはない」という宣言には、複数の目的が込められていた。
同時期のフランスでは、ルイ14世が服飾を通じた権力の演出を行っていた。1668年、「宮廷人は常に最新の衣装を身につけるべし」という勅令を出し、「グラン・アビ・ド・クール」という正装スタイルを確立する。
驚くべきことに、ルイ14世は年に2回、夏と冬に新しいデザインを導入することを義務付けた。これが、現代のファッションシーズンの概念の起源となる。さらに、外国からの布地の輸入を禁止し、フランス国内の織物産業を育成。フランスを服飾の中心地とする基盤を築いた。
19世紀に入ると、軍服がスーツのデザインに大きな影響を与えることとなる。耐久性と実用性、識別性、機動性、収納性、階級表示など、軍服の機能的要素は、後のビジネススーツに多くの影響を与えた。
特に注目すべきは、ナポレオン戦争の時代である。軍隊の規模拡大に伴い、より効率的な軍服の供給方法が求められ、デザインの標準化が進んだ。この時期は、手工業から機械化への過渡期であり、後の大量生産システムの基礎となる変化が始まっていた。
同時期、産業革命により新しい中産階級が台頭。彼らは産業家、専門家、政府職員などで構成され、以前よりも豊かな生活を送っていた。この新興中産階級の出現により、高品質な紳士服への需要が高まった。
当初、彼らは上流階級の服装を模倣しようとしたが、やがて独自のスタイルを確立。これは彼らの社会的地位と権威を高めようとする試みでもあった。1851年のロンドン万国博覧会は、こうした新しい消費文化を如実に表すものとなった。
19世紀、ロンドンの中心部に紳士服の歴史を変える一本の通りが確立される。サヴィル・ローである。特に、Henry Poole & Co.の存在は重要だった。
1806年、シュロップシャー出身のジェームス・プールがブランズウィック・スクエア近くにリネンの呉服店を開店。1815年までには軍用チュニックの製作を始め、1846年には息子のヘンリーが事業を継承。ヘンリーのカリスマ性と貴族社会への情熱が、会社を新たな高みへと導いた。
Henry Poole & Co.の成功は、巧みな経営戦略によるものだった。王室や貴族との強い結びつきを活かし、多くの王室からロイヤルワラントを受けることで、高級テーラーとしてのブランドを確立。1860年には、後のエドワード7世のために非公式な夕食会用の短い上着を作り、これが現代のディナージャケット(タキシード)の誕生となった。
アメリカのスーツの歴史において、ブルックス・ブラザーズの存在は特筆すべきものだ。1818年の創業以来、既製服のスーツを導入し、高品質な衣服をより多くの人々に提供することを可能にした。
歴代アメリカ大統領40人中39人が顧客となり、特にエイブラハム・リンカーン大統領は愛用者として知られた。1896年にはポロカラー(ボタンダウン)シャツを考案、1953年には画期的なノーアイロンシャツを発明するなど、革新を続けた。
20世紀に入ると、世界の経済の中心は徐々にイギリスからアメリカへと移行。第一次世界大戦中、多くの生地が軍服に回されたため、民間のスーツはより簡素化された。
1920年代のジャズエイジでは、カラフルで個性的なスーツが流行。しかし、1929年の大恐慌後、スーツは再び地味で実用的なものに変化。特にダブルブレストスーツが人気を集めた。
第二次世界大戦中には、物資不足に対応するため、1942年に「Victory Suit」が導入される。これに反発する形で若者たちの間で「ズートスーツ」が流行するなど、スーツは社会の価値観の変化を如実に反映していた。
スーツの400年におよぶ歴史は、単なる衣服の進化以上のものを物語っている。それは権力の象徴から始まり、文化的アイデンティティの表現手段となり、そして実用的なビジネスウェアへと進化してきた。
チャールズ2世の衣服改革、ルイ14世の文化政策、19世紀の軍服の影響、サヴィル・ローの確立、そしてアメリカによる大量生産化。これらの変遷は、その時代における政治、経済、文化の変化を如実に反映している。
現代においても、スーツは依然として重要な意味を持ち続けている。カジュアル化が進む職場環境の中でも、フォーマルな場面での標準的な装いとしての地位を保ち続けているのである。
スーツの歴史を理解することは、すなわち近代西洋社会の形成過程を理解することでもある。それは単なるファッションの歴史ではなく、人々の価値観や社会構造の変遷を映し出す鏡なのである。